昭和からの贈りもの 第2章 大正時代

 2-25.上野公園 いまむかし 3   ・ 


現在はこの上野公園は春ともなれば大変な人出となります。

写真のように、かつて寛永寺への参道だった坂道は桜並木が続き、花見の人たちで賑わい、歩く事もたいへんな混雑になる事もあるくらいです。

発表によりますと、桜のシーズンだけでも毎年200万人近くの人出が予想され、週末ともなると、1日30万人以上の人々が花見に訪れる日もあるくらいです。

が、そうなりますと、桜を見るというより、人を見に行くようなもので、祖父の写真のように一人ゆっくりと、優雅に桜を愛でるという状況ではありません。


さて《上野の花見はいつ頃から?》
と調べましたら、三代将軍徳川家光公の寛永寺建立の祭に、既に奈良県吉野から桜を植樹させていたようです。
寛永寺は寛永2年(1625)に本坊が建立され、この年が寛永寺の創立とされていますので、380年ほど前から、桜の植樹が行われていたと思われます。

その後五代将軍徳川綱吉公の時代になると、一般にも上野のお山を開放するようになり、桜の名所として広く知られるようになったそうです。

但し、上野は寺社領ということで、歌舞音曲は禁じられていた為、今のようなドンちゃん騒ぎをするようなタイプではなく、少人数や、歩きながら愛でる花見が多かったようです。
また上野の山には山同心という見回りの役人が置かれ、暮れ六つ(午後6時)には閉門となり、一般の人々は門外に出ることになっていたようです。

その後八代将軍徳川吉宗の頃になって、飛鳥山や隅田川沿いにも桜が整備され、桜の花見はますます庶民の楽しみとなっていきました。


かつて寛永寺への参道だった道

花見のシーズンは人出でいっぱいです
下の絵は歌川広重が描いた【東都上野花見】という3枚続きの錦絵で、現在寛永寺境内に掲示してあるものです。
《作品は大奥の行列を記したもの。江戸時代は参詣図を書くことが出来なかった為、花見風に仕立て、参詣を匂わしたもの》
と記されています。
またこれ以外にも明治期の花見の様子なども掲示されています。



歌川広重【東都上野花見】寛永寺境内掲示

こうした上野の桜の木も、先の上野戦争で甚大なる被害を蒙りましたが、明治時代に入って有志たちの手で桜の植樹が行われ、再び上野は花見が出来るようになります。


【大正12年・上野公園大佛下】にあるように、祖父の写真が撮られた頃の花見は、現代のように宴会目的ではなく、見る花見の方が多く、大正時代から昭和初期の写真を見ても、茶店で休憩する姿はあっても、皆がゴザや敷物を引いて宴会をする雰囲気ではなかったようです。

それがいつの頃からか、花見の陣を敷き、宴会目的の花見に変わってきました。

中にはカラオケ機器を持ち込んでいるグループも見られる今日この頃ですが、それも時代の流れと言うものでしょう。


この頁の写真は現在の花見のシーズンの様子ですが、歩くのも大変なくらいの人出なので、朝早く出かける事にしています。

が、それでもたくさんの人出で、更に早朝から場所取りも行われ、ブルーシートで覆われています。


でも見上げれば満開の桜が空を覆いつくし、やはり上野の桜は人々を引き付ける不思議な魅力がありますね。


上野公園花見の場所取り

上野公園の桜

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