昭和6年の出来事 1931   ・ 
【1月】
10 30年ぶりに中学校令が改正され、音楽や園芸等と共に、柔道、剣道も必修科目となります。
昭和9年,東京市立第二中学校・柔道】にもこの頃の柔道着姿の写真がありますが、写っているのはいずれもこの中学校令が改正された後の昭和7年や9年などの写真です。(写真6−1)
16 全国の学校に天皇皇后両陛下の写真である永久不変色御真影の配布が始まります。
こうした御真影は雑誌の付録にも登場しますが、右の写真は少年倶楽部200号記念の付録です。
(写真6-2)
30 警視庁保安部で《映画館男女別席撤廃》を決定します。
それまでは風紀上の問題として男女は別々の席で鑑賞しなくてはなりませんでした。

6-1.中学時代の柔道着姿の写真/昭和7年

6-2.少年倶楽部200号記念付録
この年新年号から【のらくろ二等卒】が講談社の少年倶楽部に掲載されます。
《恵まれない子供たちに夢を!》という思いからストーリーが考えられ、捨て犬だった【のらくろ】が、二等卒として軍隊に入営し、ミスをしながらも軍隊で活躍して生活をするというストーリーです。
当初は二等卒のまま、1年程度で終わる予定だったものの、子供たちの支持の多さに連載を終える事が出来ず、次の年には一等兵に昇級し、上等兵、伍長・・・そして最後は少佐に出世しながら11年も連載が続いたという漫画です。
前年登場した紙芝居の黄金バットと共に、この時代の子供たちのヒーローとなって行きます。
2年後の昭和8年に上野で開催された【萬国婦人子供博覧会】では、【のらくろ不思議館】というパビリオンも登場しますが、いかにのらくろ人気が凄かったかを物語る1枚です。(↓9月の出来事・写真6-22)
詳しくは【昭和8年・博覧会 2 のらくろ不思議館】をご覧下さい。
尚、二等卒という階級はこの年11月の兵制改正によって、二等兵と言う名称に変わります。
【のらくろ】はこの後、単行本として出版されます。
昭和44年には復刻版十巻が出版され(写真6-3)、更に文庫本や続編等も出版されました。
現在は作家の田河水泡氏が育った東京都森下に、【田河水泡・のらくろ館】が出来、この記念館前の通りは通称【のらくろーど】と言われ、のらくろの看板やグッズが迎えてくれます。(写真6-4)
トランクルームが初めて登場したのもこの頃で、日本橋の江戸橋近くの三菱倉庫にオープンします。
もっとも倉庫としての利用より、お座敷に向かう芸者たちの着替えの場として利用されていました。
この三菱倉庫は明治20年創設の歴史のある倉庫で、関東大震災で被災した後、前年の昭和5年に竣工します。


6-3.昭和44年発行 のらくろ全集10巻

6-4.森下商店街の のらくろーど
【2月】
1 菓子類の販売が激しくなる中、明治製菓は全国11駅にチョコとキャラメルの自動販売機を設置します。
物珍しさと宣伝を兼ねたものですが、10銭を入れてハンドルを回すと、チョコかキャラメルと2銭のお釣が出る仕組みです。
一方江崎(現グリコ)も、10銭を入れると音声付の映像が流れ、その後キャラメルとお釣の2銭が出る自動販売機を考案し全国各所に設置します。
現在も神戸のグリコピア神戸では、この映写付自動販売機を見ることができます。(写真6-5)
4 松竹女優が顔などに5000円の容姿保険に加入したと話題になります。
その後も日劇や他ののダンサーが自慢の足に2万円から3万円の保険をかけ、この容姿保険が人気となります。
5 東京航空輸送会社が第一回エアガール採用試験を行い140人が受験します。(→4月出来事)
11 慶長17年(1612)に築城されて以降、庶民は立ち入ることが出来なかった【名古屋城】が、恩賜元離宮として一般公開されます。
明治維新の後一度は廃城とされますが、外国公使や陸軍幹部の訴えによって保存が決定され、名古屋鎮台が置かれます。
また本丸は明治中頃に宮内庁に移管され、名古屋離宮とされますが、前年昭和5年に名古屋市に下賜されこの日の公開となります。
残念ながら太平洋戦争の最中の昭和20年に、名古屋空襲の焼夷弾によって名古屋城は本丸や大天守、小天守、金鯱、数々の国宝等とともに焼失します。
写真は昭和8年頃の焼失前の名古屋城です。(写真6-6)
因みに名古屋城といえば金鯱が有名ですが、慶長大判1940枚分の金で出来ていると言われ、江戸時代には大凧に乗った盗人が金鯱を盗もうとしたり、明治以降も3回ほど盗難騒ぎが起こっています。
現在の名古屋城は昭和34年に再建されたもので、金鯱なども復元されています。
11 ゲーリー・クーパーとマレーネ・ディートリヒ主演の米映画【モロッコ】が封切られます。
初のスーパーインポーズ(日本語字幕)入りの映画という事でヒットします。(写真6-7)


6-5.グリコの自動販売機/グリコピア神戸蔵

6-6.昭和8年当時の名古屋城/ウィキペディア

6-7.映画モロッコ/ウィキペディア
【3月】
1
花王石鹸株式会社長瀬商会(現花王)が【新装花王石鹸】の発売を開始しますが、同時に新聞各誌には業界初と言える全頁写真の広告を展開します。
3
日本で《母の日》の最初の催しが行われたのがこの頃で、《母をたたえましょう》と大日本連合婦人会が旗を掲げ町中を行進し全国に広がります。
その後、皇后陛下の誕生日の3月6日に地久節が行われるようになりますが、正式に《母の日》となるのは、戦後の昭和24年の事で、同時にアメリカに倣って5月の第2日曜日とされました。
6
千葉県津田沼海岸にて、宮本美代子女史が女性として初めてパラシュート降下に成功します。
24
震災復興事業の中の三大公園としては最後となる【隅田公園】が開園します。
写真は昭和6年当時の隅田公園での記念写真ですが、写っているのは伯父の弟たちで、根岸小学校から復興記念で開園した隅田公園に遠足に来た時のものです。(写真6-8 )
また後ろに写っているのは同じ震災復興事業で昭和3年に架橋された言問橋です。
因みに震災復興三大公園の他の二つは昭和3年開園の錦糸公園と昭和4年開園の浜町公園です。
寒さに強く早生種の水稲の品種改良として【農林1号】が開発されました。
後にコシヒカリや多くのお米の祖先となる品種ですが、この農林1号の登場によって、戦中戦後の食糧生産に貢献し、多くの飢餓から守ったと言われています。

6-8 .開園した隅田公園と言問橋/昭和6年
今では見なくなったオート三輪ですが、発動機製造(現ダイハツ)がオート三輪の【ツバサ号】を製造販売します。
排気量497ccで400kgの積載が可能で、価格は870円でした。
バイクに荷台を付けたようなタイプで、この後10月には、東洋工業(現マツダ)がオート三輪【マツダ】(写真6-9)を販売するなど、この後次々と開発されていきます。
童謡の【花かげ】が発表されたのがこの日です。
作曲家の大村主計氏は山梨県牧丘町出身で、現在町には【花かげホール】があり、以前この花かげを記念した童謡コンサートでお伺いした事があります。
町の方たくさんの皆さんが《花かげ》を歌われ、まさに地域に根付いたコンサートでした。



6-9 .マツダオート三輪/ウィキぺディア
【4月】
1 女性の新しい進出がなされたのも大正時代から昭和初期にかけてのことですが、その中でも華やかで脚光をあびた一つが4月1日に初搭乗したエアガールと言われた現在の客室乗務員です。(写真6-10)
東京航空輸送社が募集をしたところ、採用試験には140人もの応募があり、見事3人の十代女性が合格し、日本初のエアガールが誕生しました。
とは言っても、当時乗っていたのは、東京大井海岸から伊豆下田を経て、清水港まで飛ぶ6人乗りの水上飛行機で、当然ながら機内には通路もない為、着席のままお茶を提供し、眼下の景色の案内をしていたそうです。
が、女性がニコニコと案内するだけでも、飛行機が安全であるという印象を乗客には与えていたようです。
新聞などにも《天駈ける天女》としてもてはやされ、中にはサインを求める乗客もいたそうです。
もっともこの3人とも、月給16円〜17円が安いということで1ヵ月後には退職します。
確かにこの当時のバス車掌月給が54円、12月開店の地下鉄ストア女子店員の月給が30円ですので、現在の感覚からみて今以上に危険を伴う仕事の割には月給が安いように感じます。
ちなみに、羽田空港が開業したのもこの年の8月です。(→8月出来事)
18 兵庫県明石郡の断崖にて、人間の腰骨の化石が発見され後に《明石原人》と命名されます。
発見当時は旧石器時代が否定されていた時代でもあり、真偽が解明されないまま太平洋戦争に突入し、焼夷弾によって化石は焼失してしまいます。
戦後になって化石の石膏模型が見つかったことから再調査され、改めて《明石原人》と命名されます。
既に化石もなく幻の原人と言われていますが、現在も地元では《明石原人まつり》が開催されています。
21 浅草の日本染絨会社で従業員解雇に反対し、男女280名の従業員が日本で初めてのハンガーストライキに突入します。(日本染絨騒動)
5日後の26日には20名が倒れ警視庁が解決するように促しますがハンストは続き、翌月5月1日には応援に駆けつけた男が煙突に登るという2代目煙突男が登場し滞在315時間55分というレコードとなります。
このストライキで重症患者も続出し、煙突男も瀕死の重症となり、最終的には5月14日になって会社側が動労者の要求を受け入れ、煙突男は重症のまま籠に入れられて降り立ちます。
エアガールと言う言葉は流行となりましたが、これ以外にも昭和初期には《ガール》といった言葉が大流行します。
先のマネキンガールやエレベーターガールを初め、ガソリンガール、、ゴルフガール、ショップガール等《ガール》が付く職業が次々出てきます。
右の表はこの年に発表された、《女商売新旧番付》というもので、女性の職業を新旧で番付にしたものです。
これを見ても、○○ガールが多いことが判ります。
この月に山田安民薬房(現ロート製薬)より片手で点眼できる【ロート目薬】が発売されます。
この容器は新案特許を取得し、《新しい発明》と謳われて売り出され、1個20銭〜50銭という値段で人気商品となります。(写真6-11)

この月、文芸春秋オール読物号の創刊号に【銭形平次捕物控】が登場し人気となります。
以来のらくろを凌ぐ連載となります。


6-10.初登場のエアガールと水上飛行機

女商売新旧番付(表6-9)

東(新商売) 西(旧商売)
張出横綱 映画女優 舞台女優
張出大関 婦人秘書 女中
横綱 ウエイトレス 女工
大関 マネキンガール モデル女
関脇 ガソリンガール 産婆
小結 タイピスト 交換手
前頭 ダンサー 芸者
エレベーターガール 出札嬢
麻雀ガール ゲーム取り
レビューガール よいとまけ
マッチガール びらまき女
美容家 髷結い
ドレスメーカー 裁縫師
ショップガール 女事務員
マニキアーガール 女床屋
マッサージガール 按摩
ピアニスト 琴三味線師匠
アナウンサー 長唄師匠
ヴァイオリニスト ちんどん屋
円タクガール 新聞売子
サービスガール 行商


6-11 .ロートの新聞広告
【5月】
1 米国で地上381m、102階建てのエンパイヤステートビルが完成します。
翌年には少年雑誌の付録にも、この世界一高いビルの紙模型も登場しますが、写真は建築中のエンパイアステートビルです。
当然ながら命綱などが無い状態での高所作業でしたが、acidcow.comでは当時の作業風景を見る事が出来ます。(写真6-12)
1 この日の東京朝日新聞からラジオ欄が登場します。
10 江戸川乱歩全集が発売され人気となります。
11 現在の文部省宇宙航空研究所の前進である、東京帝国大学航空研究所が開所し、天皇陛下も施設を見学されます。
元々大正7年に深川に設立されましたが、関東大震災で被災した後、帝国大学駒場駒場校舎に仮住まいしていましたが、この日最新設備を備えての開所となりました。

14 大相撲夏場所が開催されますが、力士の大型化とより激しい攻防を求める事から、土俵の大きさが15尺(4.55m)に拡大されます。
それまでは直径3尺(3.94m)で、外側にも土俵がついた二重土俵が江戸時代から続いていました。
29 桜田門に警視庁舎が落成します。
写真は桜田門から見た警視庁ですが、建築中に塔の高さに対して市民からクレームが来た事で、高さが変更になっての落成です。
右は昭和7年の絵葉書ですが、葉書裏面には
『最初の設計では屋上の塔をもっと高い圓屋根にする予定だったさうですが、桜田門外の風光を害するものだとて、市民の猛反対があったため、御覧の通り途中から切ってしまひました。帝都警備の重大責任を有する庁舎として絶好の位置を占めています。』
の記載があります。(写真6-13)


6-12.建築中のエンパイアステートビル/acidcow.com


6-13.落成した警視庁新庁舎/絵葉書
【6月】
13 東京六大学野球の早慶戦で早稲田の応援に初めてブラスバンドが登場します。
これは両校の応援合戦に勝つことと、悪質な野次の撃退目的がありました。
23 警視庁ではかねてから申請があった木賃宿を簡易旅館と改称することを決定します。
木賃宿は江戸時代から続く、自炊の比較的安い宿を指す事から、今回の改称となりました。

30 バナナキャラメルの登場やキャラメルの値下げ販売など起こる中、森永製菓では飛行機を用いた《飛行機セール》を行います。
これは飛行機に乗って北海道から九州まで、全国訪問販売を3ヶ月にわたって行いう事と、同時にキャラメル30銭分を購入すると飛行機の模型を進呈するといったキャンペーンで、菓子メーカーの競争が益々激化します。
因みに当時の森永キャラメルは20粒入りで10銭でした。
右は当時の飛行機セールの新聞広告ですが、森永ではこうした飛行機模型が300万個進呈したそうです。(写真6-14)
6月には上野駅前に【地下鉄ストアビル】が竣工します。(写真6-15)
東京地下鉄道会社が直営する百貨店で、地上9階地下2階建で、ビル壁面には大きな時計が動き、更に地下は地下鉄上野駅に連結しています。
開店は12月になってからですが、9月に女子定員募集をしたところ、6人の募集に600人もの応募があります。(給与・高女卒で月30円)
詳細については【昭和7年頃・上野地下鉄ストアビル】に詳しく掲載しております。
この頃登場したものに【マイナー・ハーモニカ】があります。
国産ハーモニカは大正3年に登場しますが、トンボハーモニカ製作所(現トンボ楽器製作所)が、単音の21穴タイプを1円70銭で販売したことで、簡単に演奏しやすくなり、ハーモニカ流行となります。
写真は昭和7年頃に、ハーモニカを吹いている様子です。(写真6-16)
この月の中央公論に【一本刀土俵入り】が発表され人気となります。
翌月には東京劇場にて六代目尾上菊五郎と五代目中村福助で舞台も演じられます。


6-14.飛行機セールの新聞広告

6-15.地下鉄ストアビル/昭和7年

6-16.伯父の家でハーモニカを吹く従兄弟/昭和7年
【7月】
7 静岡県【富士山郵便局】や山梨県【富士山北郵便局】など全国13の郵便局で、風景の入った消印の使用が開始されます。
8 ラジオ体操の歌の公募によって入選作が放送されます。
現在は「新しい朝が来た、希望の朝だ・・・」ですが、この時の歌は「躍る朝日の光を浴びて、屈(ま)げよ伸せよ吾等が腕(カイナ)、ラジオは叫ぶ一二三」という歌詞でした。
30 三原山に観光用ラクダがゴビ砂漠やモンゴルから到着します。
御神火茶屋から内輪までの往復3キロを50分で結び、5人乗りで、一人1円50銭でしたが、こうした事が話題となり、三原山は第一次観光ブームとなってゆきます。
写真は【昭和14年・三原山 3 ロバ・ラクダ】にも掲載している当時の絵葉書です。(写真6-17)
この月、日本初の自動車専用道路が神奈川県大船〜江ノ島間で運用が開始されます。


6-17.三原山の観光ラクダ/絵葉書
【8月】
1 郵便法改正によって、重量の単位が今までの匁からメートル法のグラムに変わります。
日本で初めての本格的トーキー映画【マダムと女房】が封切られ人気となります。
主演:渡辺篤、田中絹代で、新しい映画の幕開けとなります。(写真6-18)
6 エアガールが登場したり羽田空港開港など、この頃は航空ブームですが、その一つに空の女王【アミー・ジョンソン】の来日があります。
ロンドンから愛機プス・モス機で12,000キロの飛行を経て立川空港に降り立ちますが、その美貌もあって大きな話題となります。
8 ダット自動車製造株式会社が小型乗用車の【DATSON・ダットソン】を製造を開始します。
排気量495cc、最高速度は時速65キロで1150円という価格で、この年10台が生産されます。
この頃のシボレーセダンやフォードセダンが2400円くらいでしたので、外国車の半額以下ということになります。
前年の昭和5年に試作車の【ダット号】を作り、その2代目ということからダット号の息子【DATSOM・ダットソン】と車名が付きますが、《SON》では日本語の《損》に繋がるということで、最終的に太陽の意味合いもある《SUN》となり《DATSUN・ダットサン》に改名されます。
写真は昭和16年頃のダットサンに乗る伯父たちです。(写真6-19)
11 自動車の制限速度がそれまでの時速
16マイル(26キロ)から30マイル(48キロ)に改定されます。
20 8月20日は《交通信号の日》ですが、これは昭和6年8月20日に、銀座尾張町や京橋交差点など全国34箇所に3色の自動信号機が設置されたことに由来します。
これによって手信号が廃止となってゆきます。

6-18.マダムと女房/ウィキペディア

6-19.戸田橋前でのダットサン/昭和13年撮影
25 幅15mの滑走路が1本という羽田空港が開港します。(写真6-20/21)
一番機は大阪に向けて飛び立ちましたが、この時の運賃は30円です。
当時の大阪までの寝台特急料金は、80銭〜1円50銭でしたので、如何に高価な乗り物だったかがわかります。
右は開港当時の写真と昭和12年の空港ですが、飛行機格納庫の横に新しいビルが建っているのが判ります。こうして次第に羽田空港は大きくなっていきます。
尚、この当時の飛行機と言えば、まだまだ一般的ではなく、『無事に帰ってこれるか・・・』とか『乗ると体調が悪くなる・・・』などと信じられていた時代で、乗る際は意を決し、下着も新しいものに変えて乗っていた人もいたようです。
26 先のアミージョンソンに引き続き、リンドバーグ夫妻が霞ヶ浦に着水します。
リンドバーグは既にニューヨーク〜パリ間の大西洋単独無着陸横断に成功し、今回は北大西洋航路調査として来日しました。
夫妻は23日に国後島に着水して以降、9月18日に福岡を発つまで日本に滞在しましたが、その間東京では首相との歓迎会に出席したり、軽井沢に行ったり、歌舞伎を見たり筑波山ケーブルに乗ったりと大層な歓迎を受けます。
BGMという音楽が使われたのもこの年からといわれています。
時代は丁度レコードブームだったようですが、8月に開業した【丸の内食堂】で昼食時に洋楽レコードをかけたのが最初で、以降他のお店でも流行るようになります。



6-20.昭和6年開港の羽田空港/ウィキペディア

6-21.昭和12年頃の羽田空港/絵葉書
【9月】
1 この当時世界最長となる上越線の清水トンネル(9702m)が開通し、一番列車が通過します。(写真6-22)
このトンネル工事は大正11年から10年に渡り49人もの犠牲者を出す難工事でした。
15 東京の地下鉄は、浅草〜万世橋間(3.9km)が運行し、乗車料金は10銭均一でしたが、不景気の為2kmで5銭に値下げします。
こうした値下げは他でも多く、前日14日には低所得家庭15,000戸の電灯料金も半額(50銭)に値下げされます。
18 関東軍が中華民国奉天(現瀋陽)郊外にて満州鉄道線路を爆発したことを発端にした【満州事変】が勃発します。
19 満州事変の第一報が初のラジオ臨時ニュースで流されます。
その影響で株式や商品相場が暴落します。
21 埼玉を中心にM7.0の地震が発生し、死者16名、家屋半壊492戸の被害となります。《西埼玉地震》
この秋に、【高島屋 十銭ストア(テンセンストア)】が開店します。
何でも10銭という、現在の百円ショップのような店舗で、この後10年間で106店舗にも達し、チェーンストアのはしりともいえるでしょう。
昭和8年・博覧会2 のらくろ不思議館】の写真の中にも【高島屋10銭20銭ストア】として写っています。(写真6-23)
世の中は前年から引き続いて不景気のどん底で、給料も下がり続けますが、同時に物価も下がり、豪華だった本などさまざまなものが十銭となります。
また、カレーや洋食やラーメンなどは十銭均一という【十銭食堂】も登場します。



6-22.清水トンネル/絵葉書

6-23.婦人子供博覧会での高島屋10銭20銭ストア/昭和8年
【10月】
1 日本橋白木屋が、本館隣に60人乗りの大型エレベーターを備えた東館を竣工し、2年来の拡張工事を終えて新装開店します。(写真6-24)
日本橋白木屋は江戸寛文2年(1662)創業の老舗呉服店でした、翌年昭和7年には日本初の高層ビル火災を起こし(→昭和7年の出来事・12月参照)、平成11年になって営業不振から閉店し336年の歴史に幕を閉じます。
29 米国大リーグの選抜チームが来日し、日本の六大学と全17試合を対戦します。
結果は大リーグ選抜の全勝でしたが、人気は凄く、これが後の昭和9年のベーブルースらの2回目の大リーグ選抜の来日に繋がり、日本のプロ野球結成の引き金となります。
上野動物園に【サル山】が誕生したのがこの頃です。(写真6-25)
この他ライオンがお目見えしたり、さまざまな動物が新しくやってきますが、この当時の上野動物園のサル山やライオンなどは【昭和8年・上野動物園】に詳しく掲載しています。
この頃から東北や北海道では冷害の為、収穫が7割減となる地域も出る大凶作となり、飢餓難民は35万人、欠食児童が20万人とも発表されます。
前年の大恐慌と豊作飢餓に引き続いての凶作で、各地で娘の身売りなども多発する事になり、大きな社会問題と化します。


6-24.日本橋白木屋/絵葉書

6-25.完成した頃の上野動物園 猿山/昭和8年
【11月】
1 昭和初期は相次いで百貨店が開業していますが、【浅草松屋】が【東武鉄道浅草雷門駅】と共にオープンします。
右の図や写真のように(写真6-25・6-26)、東武電車がデパート2階に直結した地上7階地下1階のターミナルデパートとして開店しました。
当時は近隣には高い建物が少なく、屋上から眺める光景は人気となります。
この【浅草松屋】については、【昭和7年頃・浅草松屋】に記しています。
ただ平成22年には業績不振の為、4階から上の階の営業を閉鎖しました。
またこの頃神田の伊勢丹が市電新宿車庫用地を購入しますが、2年後に新宿伊勢丹として開店します。
2 先に上野公園内に竣工した東京科学博物館(現国立科学博物館)が、この日天皇・皇后陛下をお招きして開館しました。(写真6-28)
当時の写真を見ると、今と違って博物館前は芝生で広々としていた事が判りますが、平成16年には新しく地球館がオープンし、写真に写る古い建物も重要文化財に指定され、日本館として公開されています。
尚、この科学博物館が建つ場所には、江戸時代の寛永寺の遺構を初め、弥生時代や古墳時代の住居跡が確認されており、上野忍岡遺跡とも言われています。
更に貝塚なども見つかり、古代はこの場所から下が海であった事が判るという、まさに科学博物館ならではの場所です。
3 「雨ニモマケズ・・・」は宮沢賢治の代表作ですが、この詩は闘病中のこの11月3日に記し、没後に日記が公開された時に見つかった遺稿です。
7 大阪城天守閣が260年ぶりに復活し、その竣工式が盛大に行われます。
昭和天皇即位の御大典記念事業の一環として、大阪市民の寄付などによって、5層7階の地上55mの天守閣が蘇ります。
当時としては珍しい冷暖房完備でエレベーターが完備されていました。
右は大阪城築城を記念して大阪市によって刊行された本で、大阪城の歴史や今回の建築までの流れや大阪城の内部、そして大阪市の地図などが掲載された、昭和初期のガイドブックのようなものです。(写真6-29)
7 前月来日した大リーグのと開会式が行われ以降全17試合が行われます。
10 陸軍兵の階級呼称が改正され、一等卒は一等兵となります。
先の【のらくろ二等卒】も【上等兵】など【卒】が【兵】となります
25 平凡社から全24巻の【大百科事典】が刊行され1巻4円50銭ながらも大ヒットとなります。
当時平凡社は雑誌【平凡】が5号で廃刊となり経営危機状態でしたが、この百科事典や江戸川乱歩全集などの刊行によって危機を乗り越える事になります。
因みに【事典】と言う言葉はこの時の新語になります。


6-26.浅草松屋の店内見取り図

6-27.東武線直結の浅草松屋

6-28.開館当時の科学博物館

6-29.大阪市発行・大阪城案内本
【12月】
1 エチオピア皇帝からライオンのつがいが上野動物園に贈られます。
写真は昭和8年当時の上野動物園で撮影したライオンです。(写真6-30)
16 京成電鉄の日暮里〜青砥間が開通します。
【昭和10年頃・京成電鉄寛永寺坂駅】は京成腺の駅ですが、日暮里〜上野間が開通するのは2年後の昭和8年です。
16 浅草オペラ館が新装オープンし、榎本健一らが座長となってピエル・ブリヤントのこけら落とし公演を開催し松竹少女歌劇団と人気を二分します。
この劇団は団員150人オーケストラ25人という規模でした。
写真は当時の榎本健一一座です。(写真6-31)
25 東京駅前に東京中央郵便局が竣工します。
海外の有名建築家には「日本の新建築最高峰」等と絶賛された建物でしたが、再整備計画によって平成20年から一部取り壊しされ、高層ビル工事が進んでいます。
写真は竣工当時の郵便局ですが、宛名面には
丸の内の枢要な地を割し、東京驛と丸ビルの間の南寄りに新築された、明朗な大建築物であります。ここで扱はれる郵便物の總料は、引受が一日に通常郵便二百三十四萬五千通、小包郵便物が三万八千箇、配達は一日に通常郵便物が百七十三万五千通、小包郵便が一萬八千箇に及び、年末年始には、この数十倍に達するさうであります。
の記載があります。(写真6-32)
31 新宿にムーランルージュがオープンし、浅草演劇とは別に学生やインテリ層に人気となります。
この年6月に竣工した地下鉄ストアビルが開業します。【昭和7年頃・上野地下鉄ストアビル】参照。
この月に『屋根より高い〜』で有名な童謡【こいのぼり】が発表されます。


6-30.エチオピアから贈られたライオン/昭和8年撮影

6-31.エノケン一座・写真中央榎本健一/テプコ浅草館

6-32.東京中央郵便局/昭和7年絵葉書

この年の流行としては、銀食器や銀細工製品があげられます。
銀相場の下落に伴い贈答品等に銀細工が使われることが多かったそうですが、伯父の持ち物の中にも銀細工のものがありました。(写真6-33)
当初は『花瓶かな?』と思っていたのですが、伯父に聞いたところ、なんとワインクーラーだそうです。
なんともおしゃれで豪華なものです。
因みに台東区内には、昭和初期から銀細工を続けていらっしゃる70歳代、80歳代の職人さんが多く、現在も現役で頑張っていらっしゃいます。
これ以外にも【納豆ブーム】という事があったようです。
かつては納豆売りが『なっと〜やなっと〜』と言いながら売りに来ていたそうですが、この頃はこの納豆が人気となり、国鉄水戸駅でも納豆の販売を開始した程人気となったそうです。
この年の初登場品にタイムレコーダーがあります。
当時の総理大臣【濱口雄幸】の提唱によって天野製作所(現アマノ)が発明製造したもので、当時は【時刻記録機】と言われていたようです。
この後急速に普及し開発され、昭和8年には現在のタイムレコーダーと似たような形となり、また名称もタイムレコーダーとして流通しています。
右は昭和8年のタイムレコーダーの新聞広告です。
(写真6-34)
この年日本アンゴラ協会が結成されます。
アンゴラ協会とはアンゴラ兎の協会の事で、この頃毛皮の輸出や国内消費などで爆発的にアンゴラ兎の養兎が広まった事で協会が設立されました。
アンゴラ兎のブームの最初は明治3年に初めて輸入された時で、愛玩種として人気となりましたが、《兎取締規制》によって下火となります。
次がこの昭和4年から5年頃で、投機対象となり《アンゴラ狂乱》とも言われました。
そして3度目が戦後の昭和24年頃ですが、実は伯父もこの昭和24年頃にアンゴラ兎を飼っていたそうです。
この頃の写真に兎の写真がたくさんあった為どうしたのか聞いたら、
「アンゴラが儲かるというので始めたんだよ!」
「でもキティ台風が来て全部吹っ飛ばされたよ!」
と言っていましたが、キティ台風とは昭和24年8月に関東に上陸した大型台風の事です。
(写真6-35.36)

6-33.昭和初期の銀細工ワインクーラー

6-34.タイムレコーダーの新聞広告/昭和8年

6-35.アンゴラ兎/昭和24年頃

6-36.兎の厩舎と伯父/昭和24年頃
昭和6年の流行
童謡 こいのぼり、花かげ
玩具・遊び 紙芝居「黄金バット」、戦争ごっこ用玩具、アンチモニー製ピストル玩具
流行歌 侍ニッポン、巴里の屋根の下、ルンペン節、丘を越えて、わたしこのごろ変なのよ、女給の歌、酒は涙か溜息か
舞台・映画 モロッコ(初の日本語字幕入洋画)、マダムと女房(日本初の本格的トーキー映画))、一本刀土俵入り、瞼の母
文化・社会 のらくろ、ベビーゴルフ
言葉 生命線、ルンペン、エアガール、テクシー、電光石火、いやじゃありませんか、ハンスト
モノ・人
エアガール、ハーモニカ、ロート目薬、納豆ブーム
のらくろ連載開始、侍ニッポン、銭形平次捕物控、一本刀土俵入り、江戸川乱歩全集、大百科事典
ラジオ 第二放送を開始、9/16満州事変第一報を初の臨時ニュースで放送
この年の初登場
のらくろ、ダットソン(ダットサン)、電気掃除機、エアガール、トランクルーム、タイムレコーダー
この年の物価
白米10kg1円54銭、デパート食堂ビフテキ80銭、同ライスカレー20銭、うなぎ蒲焼50銭、風船ガム1包1銭、虎屋羊羹1棹1円40銭、モーニング(既製品)30円、電気アイロン2円95銭、パーマ10円、ヘチマコロン80銭、養命酒大瓶3円、電話新設料(東京)900円、バス女子車掌平均月給54円、地下鉄ストア女子店員月給30円、紡績女工月給12円、紡績女工前金300円〜400円(4〜5年年季)、科学博物館入場料10銭、オート三輪ツバサ号870円、三原山観光ラクダ50銭、ダットソン1150円、東京〜大阪航空運賃30円、同寝台特急80銭〜1円50銭

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