6-17.昭和14年・三原山 2 噴火口   ・ 




三原山噴火口/昭和14年

こちらは三原山噴火口近辺での写真のようですが、白い噴煙が噴出す様子がはっきりと判ります。
またゴロゴロした岩や石なども見えますが、火口近辺にへ向かう人たちの姿も見えます。
パノラマ写真っぽく撮ったと思っていましたら、後でプリントが出てきたのが下です。


やはり伯父はこうしたパノラマ撮影が好きだったようです。

さて三原山と言えば、昭和61年に500年振りとも言われる大噴火があり、伊豆半島からもその赤い噴火を見た記憶がありますが、この写真が撮られた前年の昭和13年にも中規模な噴火をしています。
この噴煙の激しさからしますと、前年の噴火が収まってようやく入山規制が解かれた頃かもしれません。

写真を拡大して判ったのですが、確かに噴火口近辺まで人の列が続いている事が判りますし、火口の近くには建物らしきものも見えます。
杖を手にしている人もいれば、学生服や、コート姿の女性の姿も見えます。
更に写真右手前の男性は、黒っぽいマスクをしているようです。
それくらい硫黄分やガスが凄かったということでしょうか?


この黒っぽいマスクは当時のマスクのスタイルです。
現在の白い使い捨てのマスクと違って、この頃のマスクは黒く、皮製のマスクも多かった時代です。
昭和10年の新聞にも、同じようなマスクを付けた近衛文麿公(代34代内閣総理大臣)の写真がありました。


昭和10年の近衛文麿公/東京朝日新聞

大島は昭和に入って開発が続き、道路なども整備されます。
また川端康成が【伊豆の踊り子】を発表し、その後映画化もされ、佐藤千夜子の【波浮の港】などもヒットしたこともあって、大島ブームが起こり、島への観光客が年々増えていった頃でもあったようです。
更に大島名物として、山頂付近から裾野まで、手動ブレーキの付いた乗り物に乗って滑る長い滑走台があり、戦前の大島の目玉だったようです。
下がその滑走台の様子ですが、あんこ姿の娘さんが手を上げて、長い滑走台を滑っているのが判ります。


三原山滑走台/絵葉書

記載によると、島の人たちは滑走台をスライダーと呼んでいたようで、滑走時間は2分から3分程だったようです。
残念ながら、滑走台は戦時中の金属回収令によって軍に提供され、その後設置されることはありませんが、今で言うならギネス級の名物になっていたかも知れません。

ただこうした人気とは裏腹に、昭和8年に東京の女子学生が身投げをした事が新聞に載ると、次から次へと身投げをする人が相次ぎ、社会問題にもなりました。
なんとこの昭和8年だけでも、自殺者は未遂を含めると950人もの人数になったようです。
この為、乗船切符は往復で売るなど対策を講じたようですが、上の火口付近の写真をみると、防ぐ方法も難しいことがわかります。


「確か秋から冬にかけて行ったと思うけど、大島は風が強くてなー。この時も結構寒かったよ」
と言うように、上の写真といい下の写真といい寒々とした感じがします。


昭和14年 伊豆大島三原山での伯父

昭和14年 伊豆大島三原山での友人

こちらは火口付近での撮ったようです。
左の写真の伯父の後ろには、カメラを下げた方と柵らしきものが見えますが、ここから先は火口で危険と言う事で立ち入り禁止なのでしょうか?
それにしては頼りなげな柵のような感じもします・・・
右側の同級生もカメラを下げていますが、食べているのはどうやらミカンのようですね!



昭和14年 伊豆大島三原山での伯父

昭和14年 伊豆大島三原山での友人

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