4-17.昭和7年・上野駅 2   ・ 

上野駅及び上野公園一帯は、元々寛永寺の寺社領であった事は先に述べましたが、更にその以は、前徳川家康が江戸城に入府した折、江戸城の鬼門として伊賀上野の藤堂高虎の屋敷が構えれれました。
そして伊賀上野の地形と山が似ていたことから、清水、黒門、車坂など同様の町もおかれます。
上野と言われるようになった説は諸説ありますが、元々は忍岡と呼ばれていたものが、伊賀上野の上野をとって【上野】と呼ばれたという説もあるようです。
その後藤堂高虎は徳川藩に屋敷を返上し、寛永寺が建立されます



昭和6年の時事写真速報による上野驛

上は昭和6年11月13日に発行された【時事写真速報】です。

街の掲示板に貼られるNEWSですが、タイトルは【帝都北玄関の威容 上野驛落成】となっています。
駅舎には木製と思われる足場が組まれ、右手には上野驛の表示があり、その前には客待ちの人力車も見えます。
駅前の整備はまだまだの様子で、重機などはもちろん無く、代わりに大八車が見えます。
また昭和通りの交通量は結構あるようですが、円タクに混じって、自転車に乗る人や、リアカーや大八車を引く人も見えます。


この新しい駅舎を作る際にもさまざまな事があったようで、基礎工事で土中を掘る際には、上野戦争のものと思われつ刀剣類や遺骨がたくさん出土したそうです。
同時に工事中の作業員の事故死等が多発した為に、それら刀剣類や人骨を集め、寛永寺に依頼をして、大々的に供養をした以降は事故は起こらず、無事に駅が完成したとのことです。

その後上野は北の玄関口として栄え、昭和の終わりに国鉄はJRと名称を変え、民営化がスタートしました。
その後、昭和最後の昭和64年に、JR東日本はこの上野駅を地上300mの超高層ビルにする計画を発表しました。
駅以外にホテル、デパート、美術館や劇場などを併設し、10年後の1999年完成予定でしたが、バブルの終わりと共にそうした話も立ち消えになり、二代目の上野駅は現在もたくさんの人たちのターミナル駅として利用されています。
開業当初は一本だったホームも、今では新幹線も含め22番線までとなり、一日の乗降客数も60万人以上の駅となりました。


昭和初期の上野駅空撮風景/下町風俗資料館蔵

そしてこちらは上野駅が落成した後に飛行機より撮影された様子を絵葉書にしたものです。
これを見ますと、当時の上野駅近辺の様子が一目瞭然ですが、右端前角に建つ茶色い建物が、前述【地下鉄ストアビル】です。
左手前には細長い建物が見えますが、これは当時の下谷郵便局で、現在は丸井が建っている場所です。

公園を見ますと右端に見えるのが、現在も建つ国立科学博物館で、その上は東京国立博物館内の表慶館です。
更に左隣が東京府美術館ですが、【昭和5年・東京府美術館】の写真にも見えるように、正面入り口の大きな柱も判ります。

また、現在の公園口に建っている西洋美術館の場所にあるのは、寛永寺子院の凌雲院のようで、この一帯は墓地でもあったようです。
現在の大噴水は見当たりませんが、こうして古い建物が少しずつ新しい建物へと変わり、上野公園も変わって行きます。

上野公園入り口の桜も、上野で一番早く咲く桜と言われ、二月末には右の写真のように満開となります。
この入り口から長い坂道を登っていくと桜並木となり、お花見の人たちで賑わいますが、ここも元々は寛永寺の参道だった所です。

伯父たちにとって、当然ながら上野公園は格好の遊び場であったようで、上野の写真がたくさん残っていますが、公園入り口の早咲きの桜を見に行った時も「昔はもっと色が鮮やかだったな〜」と、懐かしそうに言ってました。 



上野公園の西郷隆盛銅像/昭和初期
左の写真の撮影日は不明ですが、上野と言えば【西郷さん】と答えが返ってくる程知られている上野公園の西郷隆盛像です。

この銅像は、皇居前の【楠正成】、靖国神社の【大村益次郎】と並んで、東京の三大銅像とも言われており、明治31年に建てられたもので、高村光雲作の銅像です。

【西郷隆盛】は明治維新の三傑とも称されますが、【戊辰戦争】では、勝海舟と会談し、江戸城無血開城を果たし、【上野戦争】では、この銅像の近くにあった【黒門】攻撃の指揮を取ります。

この後、日本初の陸軍大将となりますが、西南戦争では今度は政府軍と対立した後自刃し、そのため一時期は逆賊とされていましたが、明治天皇直々の働きかけによって大赦され、東京を火の海から守った事もあって、この上野の地に銅像が建てられました。

着流しに草履履きで、犬を連れた散歩姿と言われますが、実際は鹿児島でのウサギ狩りの姿で、右の犬は猟犬との事です。

西郷さんは、大の写真嫌いだったそうで、銅像を作る際もたいそう苦労したそうですが、確かに当時の撮影ともなると、30分も同じ姿勢を保たなくてはならず、写真嫌いになるのもうなずけます。

ただ、除幕式の祭に上京した西郷隆盛夫人は、この銅像をみて『うちの人はこんなみすぼらしい姿ではない・・・』と嘆き、その後二度と上京する事はなかったと言われています。
因みに故郷鹿児島の銅像は、立派な軍服姿です。


西郷銅像近くの彰義隊墓

レストラン聚楽台名物だった西郷丼
この銅像のすぐ近くには、西郷隆盛ら官軍と戦って亡くなった【彰義隊の墓】もあります。

正面の墓石は、明治2年、寛永寺子院である寒松院と護国院の住職らが、明治新政府に対して密かに付近の土中に埋めたものだそうです。

その後、明治7年になって元彰義隊隊士の小川興郷らの働きかけによって明治政府の許可を得、激戦地のこの地に墓地を造立し、更に明治14年に大墓石となったそうです。

西郷さんの銅像と目と鼻の先に、お互い戦った同士が近くに相対している事も不思議ですが、西郷さんの銅像が建立されたのは、彰義隊墓地よりも24年後の事になります。

尚、この銅像の建っている下には、古くから続く【レストラン聚楽台】があり、ここの名物の一つが【西郷丼】でした。

さつま揚げや黒豚など、鹿児島名物がたっぷり入った丼は、まさにそのままのネーミングですね。

北の玄関口の洋食屋として栄え、ここで初めて洋食を口にした人も多かったようですが、残念ながら【レストラン聚楽台】は平成20年4月に、多くの人たちに惜しまれつつ半世紀の歴史に幕を閉じました。

これでまた上野の歴史と共に歩んできたお店がなくなってしまいましたね。


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