4-24.昭和7年・小田原 道了尊   ・ 


道了尊境内/昭和7年

同じ小田原の写真と一緒に、お寺の写真が何枚か出てきました。
直ぐに
『あ〜これは小田原の先の道了尊だな〜』
と思い出してくれましたが、先の小田原美濃政の写真でも写っていた【道了尊行電車】に乗って向かった【最乗寺】こと【道了尊】境内です。

伊豆箱根鉄道 大雄山線 小田原駅

大雄山駅前の金太郎像

前述小田原駅前の写真で、《道了尊行電車》という立て看板がありましたが、これは現在の伊豆箱根鉄道の大雄山線の事です。

写真が撮られた昭和7年の頃は、伊豆箱根鉄道の傘下ではなく、大雄山鉄道という独立した路線名でした。

またこの頃はまだ小田原駅まで直結しておらず、古い写真に写っていたように、【美濃政】の手前の角を曲がり、小田原駅から離れた場所が【新小田原駅】という大雄山鉄道の始発駅でした。

現在のように小田原駅と直結するのは、写真が撮られた3年後の昭和10年ですので、前頁の写真はある意味ではあまり残っていない珍しい写真とも言えます。

この大雄山鉄道は大正14年開業ですが、当時の鉄道は有名な神社仏閣を目指して開発されているのが多く、まさしくこの大雄山鉄道もそうした経緯で【最乗寺】への参詣鉄道として開業したようです。

そして終点の大雄山駅から3.5kmの山の中に建つのが、関東屈指の霊場でもある【最乗寺】です。

この【最乗寺】は、道了さまこと天狗を祀ってあるお寺としても知られており、始発の小田原駅にも大きな天狗の面があり、参拝者たちを迎えてくれます。

また足柄山は【金太郎のふるさと】とも言われる事から、終点の大雄山駅前には、《まさかり担いだ金太郎》像が建っています。

大雄山線の終点【最乗寺】からは、現在でこそバスが運行していますので、駅からものの十分もしないで【道了さま】に到着しますが、当時バスは運行していなかった為、徒歩で向かうか、もしくは籠に乗って詣でたそうです。


昭和7年の杉並木参道

当時の写真にも、徒歩で【最乗寺】に向かっている伯父の母こと、私の祖母の姿が写っていますが、実際にどの位の道のりか歩いて向かいました。

寺に向かう歩道は《てんぐのこみち》として歩き易いように整備され、また《かながわの古道五十選》にも指定されていますが、うっそうとした杉並木が続き、時折頭上からは、『カンカンカンカン』という啄木鳥が木を叩く音も聞こえて来る、さに天狗さまが出てきそうな杉並木です。


てんぐのこみち

最乗寺への参道/平成19年5月

景色を見、空気を吸いながらゆっくりと歩くには気持ちが良いのですが、さすがに三キロ半の道のりは遠く、また殆どが登りという事もあって、女性の足では1時間半以上はかかる道のりでした。


昭和7年の杉並木参道


昭和7年当時の僧堂

1時間半ほど歩き、ようやく着いた【最乗寺】ですが、車で来るよりも、自分の足で歩き訪ねた方が、清々しくもあり、その分御利益も増すのでは?という気がします。
正確には【大雄山最乗寺】と言い、足柄山のふもとで修行道場として開創600年の歴史をもつ関東屈指の霊場として知られています。


現在の僧堂
写真上がその中の僧堂で、右が現在の僧堂の写真です。

比較しますと、さすがに樹木の大きさや勢いこそ変わっているものの、当時と同じ景観が見られます。

古い写真にはベンチも見られますが、確かにベンチが必要なほど境内は広く、ゆっくりと回るには2〜3時間はかかる程です。

参道もそうでしたが、【最乗寺】は広大な植林地の中にあって、樹齢500年〜600年と言われる大木が多く、天然記念物にも指定されています。


境内の天狗像と下駄
また天狗を祀ってあるお寺であることから、境内には大小の天狗像や、天狗の下駄、天狗のうちわ、天狗の印等さまざまな所に祀ってあります。

写真以外にも世界一大きいと言われる、2mほどの下駄もありますが、下駄は二対で一つと言う事から、夫婦和合の信仰が産まれたそうです。



数々の寄進碑
それにしても、【道了尊】の境内や参道を歩いて驚いたのは、さまざまな奉納者や寄進者が多い事です。

数多く目に入るのが、石の寄進碑です。
中には《奉納 金百円》等と言った明治時代のものも数多くありますが、この頃の大工さんの日当が1円〜1円50銭程度ですので、今で考えると200万〜300万円の寄進でしょうか?

これが何百と建っていますので、それだけ古くから信仰が厚いお寺という事ですね。


←BACK ・ NEXT→

昭和の出来事(昭和6年昭和7年昭和8年

昭和からの贈りものTOPへ