4-37.昭和8年・外房 御宿 貸家   ・ 


 御宿の貸家庭/昭和8年

写真には子供たちが写っていますが、伯父兄弟と一緒に写っているのは、上野桜木の友達です。
先にも述べましたが、昭和8年の夏休み期間は、自宅の大規模改修があった為、一ヶ月程千葉の外房に家を借り、そこで夏休みを過ごしていたそうです。
その時に、伯父たち兄弟だけではなく、近所のお友達なども遊びに来ていたそうで、写真はそうした時の様子です。


御宿の貸家庭での水浴び/昭和8年

御宿の貸家の庭/昭和8年


この1ヶ月は外房の御宿の貸家に滞在していたそうです。
今でこそ貸家というと、貸し別荘しか思い浮かびませんが、この頃は一般の家をそのまま借りる【貸家】がこうした海水浴場には多くあったそうです。


千葉にもそうした貸家は多かったようですが、昭和12年発行の【名勝旅程案内】という観光案内本を見てみますと、御宿には203軒の貸家があったようです。

その他の房総の海水浴場の貸家を見ましたら、
保田200軒、竹岡44軒、岩井46軒、安房北条(館山)350軒、千倉37軒、安房鴨川17軒、小湊15軒、興津125軒、勝浦78軒、大原23軒、片貝90軒、銚子36軒となっていました。
この案内をみても、館山に次いで御宿には貸家が多かった事がわかります。

因みに、この貸家の住人は?というと、夏休みの期間だけ、別の納屋や親戚の家などで寝泊りをし、夏は貸家の臨時収入を得ていたそうです。
左はこの時借りていた民家の庭先ですが、海から帰ってくるなり、水着を脱いで、真っ先に水を浴びて、潮を流していたようです。

2枚目は水を浴びた後の裸のようですが、これがこの夏休みの毎日だったのでしょうね。

もちろん宿題なども今のようにはなく、遊びまわっていたのでは?と思います。
また2枚目の写真を良く見ると土管のような井戸と大きな桶も見えます。


下は
「暑いよ〜」とでも言っているのでしょうか?
もしくは何か嫌な事があって泣いているのでしょうか?
いずれにしても普段は撮らないような写真ですね!

後ろが泊まっていた貸家かも知れませんが、広い縁側に葦簀(よしず)が掛けられ、いかにも風通しのよい感じがします。

この写真1枚で、暑い日だった様子がなんとなく伝わってきますね。


下の写真も滞在していた御宿ですが、貸家がある町内の小路のようで、よく見ると足元は靴を脱いでいます。
ガラスや釘等落ちていなく、裸足で歩いても安全な道だったのでしょうね。

影が短いので、昼時に帰ってきた時か、これから海に行くときのものと思われますが、こうした雰囲気の写真も、現在はデジカメがあり、いつでも簡単に撮れますので、見てもどうとは思いませんが、今のようにカメラが普及していなく、フィルムが貴重な時代に、こうして普段の様子を撮っていることも驚きです。
きっとたくさんの乾板を持って外房に行ったのでしょうね。



御宿の海岸近くの町並み/昭和8年

このWeb Magazineの編集中に、再度伯父に写真を見てもらったところ、

「そうそう・・・泊まったのは御宿だったなぁ・・・。御宿は砂丘が多くてなぁ・・・」
と申し、更に何日かして、

「そうだ!泊まったのはカミサダだ![神]と言う字に[定]と続く字の家に泊まったなぁ・・・」
「近くの砂丘を超えて海に行っていたが今はもうないのかなぁ・・・」

との事で、まず御宿を調べましたら、何軒か【神定】さんという家があることが判りました。
そして実際に御宿まで行き、町の方に古い写真を見ながら尋ねたら、【神定】は正確には「カミサダ」ではなく「カンジョウ」さんと読むそうですが、御宿にはこの【神定】さんがとても多くあるとの事でした。
それも皆古くからのお宅という事でしたが、写真が撮られた後に生まれた方が多く、写真の場所は断定できませんでしたが、写真と同じような路地と側溝の跡、そして遠くに山が見える路地が御宿の海岸近くにありました。
未舗装だった道路は綺麗に整備され、遠くの山々も、マンションで見えなくなっていますが、なんとなく75年前の御宿を味わってきました。



現在の御宿の海岸近くの町並み

また古い写真に写っている民家の瓦屋根が特徴的ですが、実際に御宿や勝浦に行きましたら、当時と同じような形の家がたくさんありました。
潮や風の影響を考えてこうした屋根が今でも続いているのでしょう


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